ALWAYS四丁目 ギドラのお城

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あれから10年 ブロ友さんたちの思い出

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 あの日のあの時間は「情報ライブ ミヤネ屋」を見ていました。そして地震の速報が飛び込んできたのですね。予定していた内容を変更して仙台の放送局と繋げたのですが、現地からの報告が「津波が来ました」と必死に伝えているのを遮って、司会の宮根誠司は「大阪も大変ですよ」と軽くコメントして深刻に受け止めなかったのです。

しかし、被害の大きさが分かってくると宮根誠司は顔を出さなくなり、緊急報道の特別ニュース番組となりました。その後は信じられない光景を見せつけられて声を失いましたね。

 

当時、ブロ友の女性が仙台に住んでいました。ブログの更新はもちろん無くなり、電話もメールも伝わらない事態に他のブロ友さんたちからも心配するコメントが書き込まれました。その女性は小さな子供を持った30代の主婦で、本当に気遣いましたよ。

地震から3日後、私がtosaさんの家に居た時にその女性から「何とか無事です」のメールが届き、ホッとしたものでした。早速ブログに〇〇さんは無事ですと書き込んで他のブロ友さんにも知らせました。

津波が自宅の近くまで来たところで止まったので無事だったそうですが、自宅は無事でも周辺は大変な被害を受けているので街としての機能は失われていて、救援物資を待つ状態との事。命が助かっただけでもありがたいけど毎日の暮らしは不便を強いられたそうです。

 

もう一人、トントンさんは福島に高齢で寝たきりのお母さんがいて、移動する事も出来ないので世話をするため実家に住んでいました。原発事故のニュースを見ても逃げ出す事が不可能で覚悟していたそうです。

郵便物は届くので物資面での不自由は少ないけど精神的に追い詰められていたとの事。ブロ友のあずさゆみさんからトントンさんは芋けんぴが大好きと聞いたので私が送りましたら、とても嬉しかったそうで、ずっと後になってもその話をしていました。

お母さんを看取った後に福島を引き払い、奥さんが住んでいる岡山の自宅に戻りましたが、日本中を旅行して奥さんをほったらかしにしていたので、肩身の狭い思いをしていたのはご存じの方もいらっしゃいますね(笑)

 

そのトントンさんも今は亡く、10年と言う月日を感じています。復興五輪も無観客での開催になりそうですし、被災地の皆さんの苦労を忘れたかのようなドタバタを繰り広げていますね。原発も再稼働に向けての動きが多く、あの日の教訓はどこへやら・・・日本が失ったものは大きいです。

私が住んでいる高知も大地震の到来は必至と言われています。いつか必ずやって来るその日にしっかりと準備して、出来るだけ少ない被害で済みますようにと願うばかりです。

皆さんはどのような思いで今日を迎えられましたか?

 

 

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